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翻訳:レント(四旬節)の断食

文:ポール・スコルペン 

訳:田中千恵 

 

テオーシス・インスティチュートから許可を得て、翻訳文を掲載しています。

 

原文はこちらでご覧頂けます。

 

 

 

内なる荒野に足を踏み入れる 

 

 

恥ずべき発言と批判の言葉を、口からも同じように断食させるのが良い。たとえ私たちが魚と鶏肉を節制したとしても、兄弟姉妹たちに噛みつき、むさぼり食うならば、一体どんな利益があるのだろうか?悪魔の言葉を語る者は、兄弟の肉を食べ、隣人の体に噛みついているのである。 聖ヨハネ・クリゾストモ(407年没)

 

さて、イエスは聖霊に満ちてヨルダン川から帰り、聖霊によって荒れ野に導かれ、四十日の間悪魔の試みに遭われた。その間、何もお食べにならなかったので、その期間が終わると、イエスは飢えを覚えられた。(ルカの福音書 4章1-2節)

 

 

ナザレのイエスが耐えて成し遂げられたことすべてが、歴史的な事実(2000年前のパレスチナで起きたこと)であると同時に、私たちの霊的な人生にとっての深遠なメッセージ(今まさに私たちの内側で起きていること)を含んでいて、それはキリスト教神秘主義の伝統の中で、中心となってきた教えです。イエスが経験した困難と勝利は──福音書に記されているように──人の子に起こり、そして、信仰深いキリスト教徒たち自身も同じように通過し、それによってこの世を克服し、キリスト意識に目覚めるための道、道のりとして残されています。新年の埃が落ち着く頃には、私たちが立てた多くの決意は脇へと追いやられ、実行は延期状態になってしまいます。レントの時期、断食の期間は2001年には聖灰水曜日から始まり、復活祭(イースター)の祝日まで続きます。この時期は、自己内省、(私たちの無益な在り方からの)悔い改めと(復活したキリストを目にする)期待を抱く期間なのです。

 

 

レントの40日間(この時期の日曜日6日分を引いた日数)は、イエスが荒れ野に退き、断食し、悪魔と対決した40日間を元にしています。

 

 

「霊」はイエスをすぐ荒れ野に追いやった。イエスは四十日の間そこに留まり、サタンに試みられ、野獣の住む所におられたが、天使たちがイエスに仕えていた。(マルコの福音書 1章12-13節)

 

イエスが荒野を彷徨った40日間は、『雨は四十日四十夜、地に降り注いだ』(創世記 1章12節)時に、ノアが漂流した長い日々に類似しています。モーセも同様に、『雲の中に入って行き、山に登った。そして、モーセは四十日四十夜、山にいた』(出エジプト記 24章18節)。ノアが逗留している間に、地は浄められ、モーセはシナイ山の野営地と共に十戒を授かる準備が整えられたのです。これらは『空にするためのプロセス』であり、そこで古い構造は次第に消え去り、新しいものが生まれ出ることが可能になります。イエスの荒野での経験は、もっぱら砂漠での出来事として美的に描写されています。砂漠は不毛の静かな場所であり、そこでは五感(視覚、聴覚、味覚、触覚、嗅覚)を刺激するものはほとんどありません。そのため自己はそれ自身の内側へと引っ張り込まれ、周囲の環境はその人を外側へ引き出す機会をほとんど与えません。イエスが断食したと書かれていますが、断食は単に肉体を飢えさせるためだけでなく、私たちの内側にあるすべてのエレメンタル(欲望、食欲、願望)を明らかにさせるためにあるのです。肉体を飢えさせることで、エネルギーの体(訳者注:思考体と感情体)の渇望が明らかになり、そこで初めて価値を持つようになります。イエスは、『口に入るものは人を汚さない。口から出るものこそ人を汚すのである.......しかし、口から出るものは、心から出てくるもので、これが人を汚すのである』(マタイの福音書 15章11節+15章18節)と語りました。目覚めつつある自己は、2つの相反する力:統合された魂の高潔さと雑多な潜在意識の間に揺れ動いているようなものです。自己の中に潜在意識が占拠する領域が大きければ大きい程、魂が占める余地は少なくなります。カール・グスタフ・ユングは、潜在意識を『影』と呼びました。

 

影またはエゴイズムは、強力でずる賢い敵対者であり、日常生活の慌ただしさの中で、それ自身に栄養を与え、再生するための数多くの機会を見つけ出します。恐らく、日々の内省はエゴイズムを明るみに出すための最も優れた確実な手段でしょう。同じように、特別な時期もまたそうした重要なワークをサポートしてくれます。レントの時期、受難週の前の40日間は、絶え間ない浄化によって自己を浄めることで(年を重ねる毎により一層)、私たちはパーソナリティーの狭い限界から外に出て、創造の美しさを目にすることができるようになります。この複雑な現代の世界において、40日間の『荒野での経験』を作り出すことは困難なことです。私たちのほとんどはそのための時間がないか、砂漠が近くにない状況でしょう。けれども、日常で次々と起こる雑多な出来事に押されて、そうした内的なワークを遅らせることは、私たちの中に辛いパターンをそのまま残すだけです。もし私たちが明晰さと簡素さを求めるなら、影を光で照らすために、砂漠ではない他の方法を手に入れる必要があるのです。

 

自分に打ち勝つことが、最も偉大な勝利である。 プラトン

 

 

キリスト教神秘主義者だったダスカロスこと、スティリアノス・アテシュリスは、ユングの深遠な観察と一致して、潜在意識は3つの体(訳者注:肉体・感情体・思考体)に浸透しており、エレメンタルで構成されていると述べました。

 

エレメンタルは一旦作られると、それ自身が知性と願望を持つようになります。私たちはパーソナリティー(人格)の内側にエレメンタルを持っており、それらには主な性質が思考型(メンタル)のものと、性質的により感情的なものがあります。潜在意識はこうしたエレメンタルが住んでいる場所で、そこからエレメンタルはパーソナリティーに働きかけています。肉体がそれ自体を再構成するために栄養を必要とするように、感情体と思考体も同じく食べ物(エーテルバイタリティー)を必要とします。特に強いエレメンタルやグループ・エレメンタルも、生きるためにエーテルバイタリティーを必要とするため、エレメンタルが十分に栄養を得られるような方向へと、自己を追いやっています。エレメンタルは最初は自己に仕えるために作られますが、それらが私たちのコントロールの手から離れると、その後自己がエレメンタルに仕えるようになってしまうのです!潜在意識は基本的な性質として、感情的なものであり、私たちが学んで、自己の中にあるエレメンタルをコントロールができるようになるまで、私たちは苦しむことになるでしょう。 スティリアノス・アテシュリス(ダスカロス)1992年

 

福音書の書記者たちが皆、イエスは40日の後にはじめて飢えを覚えられたと述べていることに、私たちは注意を払うべきでしょう。このことは私たちに語りかけています。一旦自己が空っぽになると、その後で最初に本当の渇望がやって来ます;神によって満たされるために!私たちのサタン(個人のエゴイズム)に打ち勝つ時、私たちの狼(凶暴な影)は子羊(真の優しい自己)と共に伏し(イザヤ書 11章6節)、私たちは統合された自己になります。内なる戦いは止み、魂はパーソナリティーの中で、居心地良くいられるようになるのです。

 

 

Copyright Paul Skorpen, 2001-2012

Translated by Chie Tanaka