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愛の力〜ホワイトイーグルの書籍より

 今回は、ホワイトイーグルによるヨハネの福音書解説の第10章「愛の力」から、翻訳した文章を一部ご紹介します。

 

 

『The Living Word of St John   White Eagle's Interpretation of the Gospel』 

 第10章《The Power of Love》より翻訳抜粋

 

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 自分の人生経験から逃れられる人は誰もいません。私たちは、このことを熱心に強調したいと思います。どれだけあなたが自分のレッスンから逃れようとしても、あなたは何度も何度も同じ経験の繰り返しに直面させられることでしょう。それはある弱さや欠点が最終的に取り除かれ、必要なレッスンが学び終えられるまで続くのです。

 生命の偉大な光と栄光である神は、完全な知恵であり、神の性質は愛です。そして、すべての創造物は愛の法則に支配されています。そのため、私たちの低次の性質や低次の自己が反発するような状況こそ、私たちは喜んで受け入れ、最終的には愛しかないことを知りながら、戦いの場面で勇敢な戦士として振る舞うべきなのです。世界の優れた聖典のひとつ、バガバッド・ギータの中にも、魂の高次の自己と低次の自己の争いという同じような物語が語られています。前者は内的に、直感的に愛の道を知っており、後者は気安さや快楽、自賛を求めます。

 私たちがこれから目を通すヨハネの福音書10章には、霊的な人生へのもうひとつの鍵が示されています。それは主に愛の力に関わることです。肉体に囚われた人たちのほとんどは、愛の不思議さ、甘美さと神聖な純粋さを垣間見ることもできません!もちろん、愛には多くの程度があります。しかし、愛の真理は、あなた自身という神殿や宇宙の偉大な神殿という建造物の中で、かなめ石または基礎になるものです。すべての霊的な努力の目的、すべての問題や恐怖や痛みに対する答え、死を超越する勝利者は、愛なのです。

 

 あなたは、これらすべてがヨハネの福音書10章の中に織り込まれていることを見いだすでしょう。

 私たちは、地上の小学校でレッスンを学びます。もし、私たちが周囲で起きている人生の中の人間ドラマを観察し、実際に私たちの苦しみの原因を自分自身の人生の中に探し出そうとするとき、それがしばしば愛の欠如か愛の誤用、または愛に関する誤解、知恵のない愛によって起きていることが分かるでしょう。愛には多くの程度があり、愛の性質は多くの異なった形で現れています。始めに人間の動物的な本能を通して現れていた愛は純化され、最終的には、イニシエートやマスターの完全な魂の中に見られるような純粋で無私の愛になっていきます。その愛は、すべての男と女の人生と魂の中に入り、彼らと共に感じ、彼らの悲しみと喜びを分かち合います。また、愛は分離がないことを知っており、父ー母なる神と永遠に一体化しています。この教えは、ホワイトイーグル・ロッジのガイダンスとして私たちが与えている原則の中に、父ー母なる神と子の再結合、聖なる家族の再会という表現で含まれています。

 

 仲間たちから孤立したままでいる人たち、彼らが人生の低い側面と呼ぶものに無関心な人たちは、主に肉体レベルの愛に留まっているような素朴な男や女たちよりも、そうした理想的な愛の獲得から切り離されてしまうでしょう。なぜなら人生のレッスンは、人間的な愛──妻に対する男性の愛、姉妹に対する兄弟の愛、子供に対する母の愛、息子に対する父親の愛、友人に対する友人の愛──という大切な授業の中で学ぶことができるからです。人間的な愛というこの感情が始まりであり、それが神聖な愛という種と約束を握っているのです。愛されるよりも愛したいという自然な衝動がない限り、蕾が開くことはありえません。ほとんどの人は愛されたいと望んでいます。自然に愛を与えている人もいます。彼らはそうせざるえを得ないからです。彼らは成熟しているため、彼らにとって愛する人のことを考え、面倒を見て、慈しむことは呼吸をしたり眠ったりするのと同じくらい自然なことなのです。

 これは、肉体的な生命を超えたところにある学びの講堂の中で、魂を待ち受けているレッスンのひとつです。魂が生命の新しい状態に慣れていくにつれて、傍に寄り添っているガイドや教師の存在を認識し始めるようになります。そして、徐々に「私は愛されたい」から「私は愛する・・・私は愛する」へと思考が目覚めていきます。愛そうとするこの衝動は、意識の拡大、そして愛は人間の人生のすべての行為、思考と動機を貫いて輝き出さなくてはならないという認識からやって来ます。愛は常に外側へと向かっていくものであり、思考や制限なしに愛それ自体を注ぎ続けるものです。

 

 この章の中で、マスターが囲いに至る門と羊について語ったとき、彼は愛のビジョンを抱き、この感情と偉大な真理と光を感じていました。羊の囲いには門があり、羊は羊飼いの後についてその門をくぐります。その門とは愛のことです。羊飼いとは、確信と信仰、愛を持って、あなたにインスピレーションを与える霊的な教師と言えます。真の羊飼いは愛の門を通って入り、羊は本能的に直感的に羊飼いを認識して、彼の後についていきます。マスターは、羊に回り道をさせようとするオオカミたちについて言及していますが、そのオオカミたちとは偽の教師、偽の指導者たちであり、彼らは知性の獲得や魔術的な力、彼らが植え付けようとする誤った教えによって、他者を支配しようとします。

 人類の霊的進化の道の異なった段階で、地上に現れたあらゆる時代のすべてのマスターたちは、真理をもたらすためにやって来ました。この真理は昨日も今日も、そして永遠に同じものです。すべてのマスターたちは彼らの言葉で、彼らの方法で、ひとつの偉大な真理、霊的世界に入る道と中心に向かう道をあなたがどのように見いだすのかを説きました。

 広大な生命の輪、太陽を思い浮かべて下さい。それから、その中心、太陽の最深部のハートを見て下さい──私たちの同志の中には、それを中心に点がある輪として描写する者もいます。これがあなたの目標です。そして、これこそがすべてのマスターが付き従うすべての人たちに示そうとしたことです。つまり、どのようにしてその入り口を通って霊的世界に入るのかということです。

 

 ここで、イエスは彼自身を羊飼いだと言いました。彼は一度ならず、「わたしは良い羊飼いであり、自分の羊を知っている」(14)と語りました。さて、私の子供たちよ、これを誤解しないで下さい。彼は特定の信仰を持つ特定の人々を切り分けて、彼らだけを自分の羊と呼んでいるわけではありません。そうではありません!彼は、すべての人の内にある個人の霊について言及してしているのです。愛の霊に応える人は皆、真理を見いだし、良い羊飼いの後について道を歩き、門を通って囲いの中に──言いかえると、すべての壁が溶け去る宇宙意識の中へ──入って行くことでしょう。そして、羊は羊飼いの声に即座に答えるのです。その一つの真の道を辿るすべての魂は、囲いまたは宇宙意識の中へ入って行きます。なぜなら、その魂はそれ自身がすべての一部であり、もはやいかなる物とも誰とも分離されていないことを認識するからです。これは、魂がすべての人類の悲しみと喜びをその身に引き受けることを意味しています。私の子供たちよ、次のことを忘れないで下さい。あなたが囲いの中に、神聖な生命と意識の中に入るとき、あなたはすべての喜びと知識の中に入っていくことになります。生命はもはやいかなる方法によっても制限されません。生命はひとつの全体であり、無限で永遠なのです。

 良い羊飼いであるマスターは、彼の羊を知っています。なぜなら、マスターは彼らのハートとバイブレーションを知っているからです。あなたの思考、祈り、熱意はバイブレーションを創り出し、それは低次のエーテル上のみに限らず、いくつもの次元を超えて中心へ、まさに神の王座へと至るのです。

 

 

 (10:1)「よくよくあなたがたに言っておく。羊の囲いのなかに門から入らず、ほかの所を乗り越えて来る者、それは、盗人であり強盗である」。

 

 

 囲いに入る道は、愛の道であり、優しさと自己規律の道です。盗人と強盗たちは、この道を拒否し、他の方法で囲いに入ろうとする者たちのことです。例えば、それは知識ばかりを熱心に求める人、思考や魔術の力、知性の力によって、無理に入り口に押し入ろうとする人たちと言っても良いでしょう。霊的な真理について読むこと、思考によって真理を知ることと、実際にその真理をすべての思考と言葉と行動の中に表現することは全く別のことなのです。イエスは他の場面で、真の道は狭く、霊的な人生は、特に最初は難しいことだと説いています。すべての段階に困難がありますが、徐々に魂は成長し、強く安定し、さらにバランスが取れて、嵐にも耐えられるようになります。天界への近道はありません。あなたは、窓を越えて、よじ登ることはできないのです。あなたは、自己規律という扉を通って入らなくてはなりません。ですから、すべての妨害を喜んで受け入れて下さい。あなたを苛立たせるものをしっかり掴み、あらゆる失望を受け入れて下さい。それらは、あなたが自分の道をさらに進んでいくために与えられた機会なのですから。

 (中略)  

 

 

 (10:6ー10)イエスはこのたとえをファリサイ派の人々にお話しになったが、彼らには話しておられることが何のことかわからなかった。

 そこで、イエスは再び仰せになった。

「よくよくあなたがたに言っておく。わたしは羊の通る門である。わたしより先に来た者は皆、盗人であり強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。わたしは門である。わたしを通って入るなら、その人は救われる。また、出入りして、牧草を見つける。盗人が来るのは、盗み、殺し、滅ぼすためにほかならない。わたしが来たのは、羊に命を得させ、しかも、豊かに得させるためである」。

 

 

 私たちは、イエスはここで愛の道、優しさの道、真理の道を取らない反キリストについて言及していると考えています。

 救済は愛を通じて、またはハートセンターが光で照らし出された時のみ、魂にもたらされるのです。ハートセンターの中には、キリストの光という宝石があります。人々は何年もかけて相対的に宗教を学び、知性を通じて知識をため込んでいるかもしれませんが、もう一度ここで言っておきましょう。魂の救済と贖いにはたったひとつの道しかありません。それは、ただキリストの愛を通してもたらされるものです。

 

 

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